離島説明
松山市には瀬戸内海国立公園内に位置する忽那諸島があり、9つの有人島と大小30以上の島で構成されている。
■安居島(あいじま)
北条港から北西の沖合にある小島。平地はほとんどなく、やや傾斜のある高地で南向きに湾が開いており、わずかの畑以外は雑木林になっている。古くは、合島、相島、愛島・藍島とも表記された。アイとは綱代(漁場)を意味するとの説もある。文化14年(1817)浅海村(あさなみむら・現北条市)の大内金左衛門が移り住んだのが始まりで、港が整備されると帆船の潮待ち、風待ちの港としてにぎわいをみせ、安政年間(1854~)から明治期にかけて最も栄えて遊郭まであったという。昭和に入り、船が大型・動力化すると港町としての機能が失われ、漁港となった。
■興居島(ごごしま)
高浜港の西約2km、船で約10分のところにある島。小千御子(おおじのおおじ)の母・和気姫命(わけのひめみこと)を埋葬したことから母居島と呼ばれていたが、元禄12年(1699)に現在の名に改称された。瀬戸内海国立公園の中にあり、温暖な気候に恵まれ、周りの海は魚介類も豊富。果物の島とも言われるように、ミカンの開花期には全島花一色になる。忽那水軍の島だった歴史もあり、毎年秋祭りに演じられる「船踊り」は県指定無形民俗文化財である。毎年4月20、21日に行われる「島四国」という八十八ヶ所巡りも有名。最近では海水浴はもちろん、ヨット・釣り・サイクリングなど、観光・レジャーの島としても新たな脚光を浴びている。
■釣島(つるしま)
高浜港の西約5kmに浮かぶ小島。平坦地は少なく、海岸からすぐに傾斜地になっているが、果樹栽培の耕地に恵まれている。島の産業は伊予柑などの柑橘栽培とタコ壺など農漁業がほとんどである。特にミカン・タコは極めて良質で、市場では高値で取引されている。元治元年(1864) 興居島(ごごしま)から5人が移住して以来、限られた土地で独自の豊かな地域社会を形成し、生活を維持している。洋風石造りの釣島灯台が有名である。
■野忽那島(のぐつなじま)
忽那諸島東端にあり、四国本土に最も近く、中島地域で一番小さい島。北西向きの湾の奥に集落があり、背後の平地がそのまま東側海岸に続く地形となっている。安政年間(1854~)に定住が始まった。大正から昭和20年代にかけては反物(たんもの)の行商でにぎわっていたが、現在は半農半漁の島となっている。農業は柑橘栽培に特化しており、ミカン価格が島の経済を大きく左右している。皿山展望台からの景色は絶景。映画「船を降りたら彼女の島」のロケ地にもなった。
■睦月島(むづきじま)
忽那諸島東部にある、羽を広げたような形の島。島の中腹を巡る農道は「睦月スカイライン」とよばれ絶景である。かつては「行商の島」として全国に伊予がすりを売り歩く人が多く、立派な長屋門の建物が残っているが、現在は柑橘の島となっている。「むづき」という島名の由来は、戦いに敗れた武士がこの島に落ち延びてきたとき、空に月が出てなかったからとも、火災が続き「無須喜」を改めたとも言われている。
■中島(なかじま)
忽那諸島中最大の島で中心でもある。島のかなりの面積が柑橘園となっており、初夏には島全体がミカンの花の香りに包まれる。古くは奈良時代から文献に残り、平安時代には豪族忽那氏の本拠地となった。忽那氏は南北朝時代には最盛期を迎え、西瀬戸に勢力を張ったものの、豊臣秀吉の天下統一と共に歴史から姿を消した。その後は、商品作物の島となり、主力作物もショウガ、除虫菊、タマネギと移り変わった。近年柑橘栽培に特化し、高品質果実を生産している。また、トライアスロンの島としても全国的に知られている。
■怒和島(ぬわじま)
忽那諸島の西部にある島。2つの集落が島の東西に分かれている。北岸の平地に畑が広がっているほか、急傾斜地を除く島全体に柑橘が植えられている。元々の集落は島の北岸、宮ノ浦にあったが、いつのころからか、現在の上怒和・元怒和(かみぬわ・もとぬわ)の2集落に分かれた。産業の中心は柑橘栽培であるが、タマネギも作られている。漁業も盛んで、まつやま農林水産物ブランド「ぼっちゃん島あわび」の養殖が行われている。
■津和地島(つわじじま)
忽那諸島西端に位置し、西隣の山口県周防(すおう)大島とはわずかな隔たりの県境の島。急傾斜地は森林、緩傾斜地は柑橘園、砂地の平地はタマネギ畑と、地形によって土地利用が分かれている。江戸時代には、津和地港は瀬戸内海航路の要衝として栄え、松山藩の「御茶屋」が置かれていた。10月の秋祭りの「だんじり」は他の地区にない特有なものである。現在の島は、農業と漁業が盛んで、農業は柑橘が中心であるが、近年ではタマネギの栽培が増えている。
漁業の盛んな島で、タコや鯛が水揚げの中心になっている。渇水対策のため、1万トン貯水できる「貯水兼導水トンネル」を設置している。
■二神島(ふたがみじま)
忽那諸島の南西端にある東西に細長い島。急傾斜地を除くと柑橘園がほとんどを占めている。もとは、島に松が多かったため「松島」と呼ばれていたが、室町時代に二神氏が領主となってから「二神島」と呼ばれるようになった。現在は、漁業や農業が盛んで、周囲の好魚場から鯛やタコなどが水揚げされる。農業生産は柑橘に特化しており、収入の柱となっていたが、高齢化のため作業が難しくなり、七草栽培にも取り組んでいる。
※由利島(ゆりじま)
二神島の南の伊予灘にある無人島。砂州(さす)によって2つの島がつながっており、西が小由利、東を大由利と呼ぶ。島内には海食洞などもみられ、最南部には灯台がある。小由利からは弥生中期の土器、大由利からは平安・鎌倉の土器や貝塚が出土している。かつては集落があった。周辺の海は古くから好漁場として知られている。イワシ漁期には数百人が島で生活したり、また、二神島から新たに人が移り住んで、一時的にこの島で耕作や農業に従事し、生計を立てたりした。島は昭和40年に無人化した。
※鹿島(かしま)
北条港の西方約400mの海上にある周囲約1.5kmの無人小島。中世の豪族河野水軍の根拠地の1つとなった鹿島城の遺構が残るほか、夏期には海水浴客などでにぎわっている。また、島内には野生の鹿が生息し、春は桜と新緑、夏は海水浴、秋は紅葉、冬には釣りが楽しめる。山頂展望台からの瀬戸の眺めは、抜群の美しさ。「伊予の二見」と呼ばれる玉理・寒戸島(ぎょくり・かんど)では、毎年5月の鹿島まつりに大注連縄(おおしめなわ)の張替えが行われる。